大人。

どうしてくだらない事で言い争うのだろう。

どうして傷つけ合うのだろう。

人は同じ人間ではないと分かっているのに思いが一緒でないことに苛立ちを覚える。
その人の個性だと割り切れないのだろうか。

私は今日も笑顔で周りに合わせる。
悪口の言い合い。
それを聞いてただ頷く。
どちらが正しくても間違えても肯定する。
仕方ないとなだめる。

自分を偽らず、好き勝手に生きるのが大人なのだろうか。
自分を偽り、嘘をつき周りに合わせるだけが大人なのだろうか。
自分を守るために相手を陥れるものもまた大人だ。




気持ちが「子供」のままの「大人」だらけだ。


自分自身もまた「子供」のままなのだから。

誰か。

希望も光も見えず、ただ暗く不安な毎日
何処へ行くも、何をするも批判し
誰かのせいだと言葉のナイフを投げ続ける

この暗い毎日は誰かのせいなのだろうか?
誰かが苦しみ消えれば明日が明るくなるのだろうか。
それはきっと虚しく意味の無いものだとわかっていても
それが誰かの生きる希望になるのだろう。

誰かの心を傷つけるものではなく励まし合い、助け合う事に未来への光が見えてくるものではないのだろうか。
この言葉も無意味だと言う「誰か」




その誰かは「自分自身」なのかもしれない。

きれいごと

「周りの迷惑を考えろ」

「たかがそんな事で」

「生きていればいい事だってあるのに」

「可哀想」

 

言葉の刃物が心に刺さる時代。

他人にとってたかがそれだけの理由。

そのたかが一瞬のその時が他の誰よりも辛いものだった。生きていた中で1番辛いものだった。

生きていればとそのただ生きることが何より苦しくて難しいこの世の中。

それが逃げだと、無駄だと言われても

その時のその選択が1番の答えであり「光」だった。

 

 

 

 

でもそれでも生きていて欲しかった。

力になりたかった。

もっと一緒に居たかった。

この気持ちも「きれいごと」なのだろうか。